「自主的」であれという「命令」 ポストフォーディズムの労働者
しかしながら、ポストフォーディズム体制では、労働者や工場は国境を越え、反復作業は機械に任されることになります。
企業はかつて、労働者の福利と厚生を図ることが一つの役割でした。しかし、拠点が国際化し、作業が複雑化すると、企業が労働者を管理するためのコストも次第に増加します。労働者の管理コストを削減しつつ、多様化された生産性を維持する方法として新たに現れたのが、「自発性を発揮する活躍の場を作る」という新たなマネジメントです。
もはや、労働時間や有休、健康状態は、労働者本人が自己管理を行う対象となりました。複雑化した業務に対応するため、自ら学び、イノベーションを起こす者が「優れた労働者」として評価されるようになります。
企業の役割は、労働者のそうした「自発性」を奨励しつつ、最小限のコストで管理できるよう、ソフトウェアによる自動化を推進することに集約されることとなります。
「経営者は従業員に対し、「自主的になれ、自ら進んで行動しろ」と命令しながらも、事務手続きを増やし、ソフトウェアによる労務管理を強化し、従業員に自主的に行動するのを禁じている……」(p167)。
現代社会の労働者は、このような矛盾した命令、「ダブルバインド」に苦しめられながら、世界中の労働者とサバイバルを繰り広げることとなります。
仕事の満足感と人生の喜び
デジタル化の進んだ社会の労働者が、このようなダブルバインドに苦しむ中、労働を通じた幸福はいかに実現されるのでしょうか。
アラン・エランベールによると、現代の精神的な病は神経症ではなく鬱病であると診断されます。経済的見地から見ると、多くの場合、鬱病罹患者は、複雑な問題に取り組むことができず、周囲との好意的な関係を築くことが難しくなるようです。
反対に欲求の充足された個人は、周囲と良い関係を築き、複雑な問題に取り組む能力が発揮されるといいます。ある調査では、生産性の低下の10%近くは、従業員が不幸になったことが原因であるとされます。
コーエンは、仕事の満足感は人生の喜びにとって主要な要素と見なします。
「仕事の満足感は、人生の喜びにとって主要な要素だ。仕事に何を求めるかを尋ねたところ、調査対象者の60%以上は安定した雇用と回答したが、その次は、面白さ(50%)、自主性(30%)と続いた。この調査で賃金と回答した割合は一番低かった(20%)。
失業の影響は、収入を失うだけでなく、社会的地位、自信、他者とのつながりの喪失を意味する。逆に、(学生時代に)金銭的な成功を願うと述べた人々の満足感は、その20年後、そのように回答しなかった人々と比べて低かった。」(p168)
幸福な社会としてのデンマークモデル
このような「幸せ」な社会の一例として、コーエンはデンマークを挙げます。
幸せの指標は多数に及びますが、その一つとして社会への信頼感があります。デンマークでは友人や同僚だけでなく、道端で会う見知らぬだけれかであっても信頼できるといいます。
道端で財布を落として、通行人が拾った際の経過を観察するという実験では、ノルウェーとデンマークは、入った現金は毎回そのままで持ち主に返還されるという結果があらわれます。しかし、他の国でのその確率は50%前後だといいます。(月刊誌リーダーズダイジェスト)
失業時の再就職に対する手当も手厚く、豊富な職業訓練により、失業期間を有意義に過ごすためのあらゆる策が講じられています。失業者の増加は、失業自身にのみならず、公的財政にとっても悩ましい事態です。デンマークの例は、国民の幸福のみならず、経済にとっても優位な例となるでしょう。
社会的族内婚という階層化
デンマークのような「幸せな国」でない先進国の状況はどうでしょうか。
コーエンはその悲観的な例としてフランス社会の「社会的族内婚」を挙げます。
他者のとの比較で不幸を自覚することを避けようとするフランス人は、所得や指向の似た仲間たちとのみ交流し、同じ階層の人々と結婚をすることとなります。学校の成績が「優」だったとものは同じ「優」のパートナーを見つけカップルとなり、不合格者は不合格者同士でカップルをつくる。
そこでは、お互いの納得ではなく、他に選択肢がないという状況がマッチングを生み、階層の固定化と再生産を進める。都市は他者とのすでに出会いの場として機能することは無くなり、常に同じ、いつものメンバーによる小集団に階層化されます。
ポストモダン社会では、このような「似た者同士の仲間」の集団が階層化することになります。似た者が集まれば、人は争いを起こさず平和に暮らすことができるのでしょうか?
「似ている」という強迫観念は差異の排斥へと転化する
残念ながらそう単純にはなりません。
ルネ・ジラールによれば、「どんな人間も自分が他者とは『ことなる』とは感じることはなく、また『差異』を正当且つ必然的と考えていないような、そんな文化はありえない」。「似ている」ことに晒されている人々は、常に強迫観念にさいなまれ、強いストレスを抱えます。
そのストレスは、一見自分たちと似ていない人間を見つけた時に、暴力となって発露します。自由と平等を目指したはずの近代は、このようにして、人種差別と外国人の排斥を再燃させることになります。
有限な社会をどう生きるか
かつてフロイトが述べたように、文化とは、人間の内なる暴力性の克服を目的としていました。それは、宗教や儀式といった形で、人間社会の様々な場面で見ることができます。経済成長は、人類に希望を与え、不安を取り除くという意味においては、暴力の抑制という文化と同様の働きをなしてきました。
しかし、資源の有限性を目前にした私たち人類は、もはや経済成長だけにその働きを頼ることはできません。しかし、現在の社会が、果たして経済成長が無くして成り立つのかというと、それも非常に難しいように思えます。(※1)
幸福についての考え方、人類が共生するための仕組みを考え直さねばなりません。
そのヒントは上述したデンマークのモデルからも学ぶことができます。
例えば職場に行く道のりについて、最短距離だが真っ暗なトンネルと、遠くなるが森に囲まれた小道を歩くのでは、森の小道をあるいたグループの方が満足度が高かったという研究結果があります。また、庭を眺められる病室の患者の方が回復が早いという結果もあります。
自然を軸にした都市計画の見直しが、人をより幸福に感じさせ、隣人を信頼し、喜びを共にする社会構築を進めることもあるでしょう。
また、環境問題の深刻化は、人類で共通の問題意識を持つためのチャンスでもあります。冒頭で述べたように経済成長は停滞を始めました。しかし、人は経済成長なしに生きることもできません(※1)。それは、成長を求めてやまないという人間の「呪い」でもあると同時に、全世界が共通の問題意識を掲げるためのチャンスでもある、コーエンはそのように結論します。
終わりに
有史以来、成長と拡大を繰り返してきた人類の歴史は、斜陽を迎えています。劇的な変化、過去から続く経済成長は、もはや幻想となりました。
人口減少を始めとする社会条件の変化は、その証左と言えます。
Web革命やイノベーション等の技術的特異点は、更なる富を生み出すようにも思われます。しかし、それはかつての産業革命のように社会全体の富を劇的に生み出しているわけでは無いようです。資本の国際化に伴う価値観の多様化と社会の階層化という矛盾は、他者への排斥やヘイトとして発露し、むしろ人間を含めた資源の有限性を際立たせているのかもしれません。
人類の幸福は、転換期を迎えているのかもしれません。それは、多寡を増すことではなく、有限な資源を如何に未来に役立てるかという、新たな思考への移行期です。
本書の主張は、無限の経済成長から有限の経済へと思考の転換を唱える、非常に現代的な示唆を含んでいます。
※1 コーエンは、現代経済の課題に取り組む経済学者について、二つの立場を挙げています。
インターネットやスマートフォンが爆発的に人口に膾炙することで、遺伝学、人工知能、ロボット工学等の新たなテクノロジーが生まれるデジタル革命が、新たな経済成長を呼び込むであろうと予測する楽観主義的経済学者たち。
一方、スマートフォンを始めとする新デバイスは、かつて石油や電気が人類の生活に及ぼした影響とは比較にならないほど小さいと指摘し(※ロバートゴードン)、経済成長を信じられなくなった悲観主義的経済学者たち。
コーエンは、どちらの主張も問題の核心を突いていると指摘します。
参考:「我々は『経済成長なき社会』に暮らさざるを得ない」 経済学者ダニエル・コーエン、インタビュー | クーリエ・ジャポン