f:id:kojity:20190323171010j:plain
 

「友達幻想ーー人と人との繋がりを考える」という新書の発行部数が、30万部を超えた、そんなニュースがあります。

 

風の便り : 友だち幻想が売れている

 

2008年発売の新書が、発売から10年たって流行るという時代背景には、いったい何があるのでしょうか。
SNSによるコミュニケーションの進化に、若者は疲れてしまっているのでしょうか。

『「コミュ障」の社会学』を手にとったのは、そんな時代に生きる人々の、「新たなる生きづらさ」を、何らかの形で現れにしてくれるのではないかという期待からでした。

本書を読み進めてすぐにわかるのは、この本の主題は「コミュ障」と呼ばれる現象にはない、ということです。学校や職場、人との関わりを上手に行うことができない、現代の言葉で言われるところの「空気が読めない」、「コミュ障」(コミュニケーション障害)である…それがどんな人の事をさし、どう振る舞えば「コミュ障」から脱して空気を読めるようになるのか、そんな処方箋を求めて本書を手に取ると、期待を裏切られることになります。

むしろこの本は、不登校についてについて何をどう語るべきか、そのことを丁寧に追いかけた本です。

 

不登校は選択として捉えられつつある

不登校は、現代でこそ、どこの学校でも起こり得ることとして認知されつつあります。場合によっては、フリースクール等を視野にいれた選択肢の一つとして、前向きに捉えられることすらあります。

しかし、当たり前のことながら、これはかつてからそうであったわけではありません。1980年代には、文科省により、不登校はあたかも本人の病気や怠慢、養育者の育児方法の問題の結果であるとみなされています。70年代には、登校拒否を神経症の一種と見做し、強制入院をさせていたという記録もあります。(※1)

このような言説が膾炙する一方で、社会による不登校の否定を問題視する様々なNPO法人、精神科医、学校関係者等の活動も活発になり、1990年代以降は文科省の報告も変化し、不登校を一定程度受容する言説も広がり始めました。

2000年代以降、フリースクールや通信制学校の次々と立ち上がり、学校へ行かなくとも自分の将来に関わる勉強や活動ができる場の存在が認知されるようになりました。

不登校や登校拒否が、単に社会からのドロップアウトを示すだけではなく、学校では発揮できなかった個性や能力を開花させるための別の選択肢にもつながっている……これは非常に希望のある言葉に聞こえます。

 

学校に通わないことの責任は本人にあるのか

しかしこの論理は、「不登校は本人の選んだ結果」であるという自己責任の正当化としても働きます。
自分で選んだ結果、新たなチャンスを掴むことができた人は、努力が報われたという意味で、本当に幸せなことだと思います。しかし、不登校の結果、フリースクールや通信制の他に選択肢が無く、そこでも才能を陶冶することができなかったとしたらどうでしょうか。
それは、本人の努力不足でしょうか?

その結論を出すには早すぎます。なぜなら、個々の才能や努力を開花させるための条件が何であるか、それは時代、親族の経済力、居住する地域など、様々な複雑な諸条件の中で決まるものであり、個々人の努力の多寡だけでは決めることが難しいからです。

子どもに生きづらさを与えてしまう原因は、本人のパーソナリティによるものよりも、外的な要因の方がはるかに大きい可能性があります。にも拘らず、不登校があたかも個人の選択肢の一つであるかのように扱うことは、個人に対して大きな責任を押し付けるだけに働いてしまうことがあり得ます。(※2)

その意味で、不登校や登校拒否を語ることは、ネガティブにせよ、ポジテティブにせよ、非常にデリケートで、難しい試みと言えます。

 

「不登校を語ることは難しい」からスタートする

分かりやすい言葉でスピーディに結論を出すこと、感覚的な言葉で事態をとらえること……現代はそのような語り口が多数を占める時代です。「ダイバーシティ」や「多様性」という言葉は、複雑な事象をイメージ化し、多人数で共有するのにとても便利な言葉です。しかしその一方で、本来、語ることに最新の注意を払わねば、別の誰かを傷つけてしまったり、人の尊厳を踏みにじる立場へ、消極的な仕方ではあっても加担してしまう、そんな繊細でデリケートな領域があります。

「不登校」という繊細な領域はいかにして語ることができるのか。本書が提示するのは、そのために必要な作法や態度、一つの可能性です。

※1 「コミュ障」の社会学p68

※2 その意味では、2018年09月01日 (土)放送のNHKスペシャル「”学校”に行かないという選択」は非常に興味深い内容でした。「元」不登校の若者たちが、現役の不登校生と対談を行うという形式の番組です。
元不登校生たちは、ある時期から学校へ行かない、あるいは行けなくなったものの、フリースクールやホームエデュケーションを活用することで、新たな将来設計や仕事が可能となった「先輩」として、自分たちの半生を語ります。イノベーションや発想の転換が求められる現代では、不登校は必ずしもマイナスではない、そう語る若者もいます。学校へ行かないという選択は、自分のやりたいことをみつけたり、才能を発揮できる機会だから、前向きに捉えてほしい。フリースクールでの仲間との学習の様子を交えながら、希望に満ちた表情でそう語ります。
一方で、そうした可能性を認めながらも、自身の親や学校に理解されない不登校の辛さを、訴える若者もいます。中学生でありながら、「この番組に自分が出演することで、不登校に対する理解が少しでも進んでくれたらいい」という旨の発言をするなど、現実を冷静に受け止めています。この対比は、非常に印象的でした。
番組は、現役の不登校生を「先輩」たちのように前向きにさせることを狙いとしていたようですが、現役生のこのような視点にも、目を見張るものがあります。

 

【書評】生きづらさを語る作法とはー「コミュ障」の社会学

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *

Scroll to top