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人類の未来の到達点を描いた「幼年期の終り

幼年期の終り』(Childhood’s End)はイギリスのSF作家、アーサー・C・クラークの長編小説です。発表は1953年。クラークの代表作として、SF史上の傑作として、現在でも広く愛読されています。

 

導入のあらすじは以下の通り。

20世紀後半のある日、巨大な宇宙船団が地球の空を覆う。それは、地球より遥かに高度な知能と技術を持った宇宙人「オーバーロード」と、人類のファーストコンタクトであった。それから50年、オーバーロードの統治により、人類は争いの無い、平和で芸術を愛する繁栄の時を迎えるが―。

 

人類を支配・監督するオーバーロードらには、人類には明かすことのできないある目的があります。人類は、オーバーロードの協力の基、戦争や資源、環境に関わる問題を次々とクリアしていきますが、一方でその隠された目的に対する不信感もあります。

その目的の本質に人類の知が届いたとき、地球に何が起こるのか、人類は何を思い行動するのか。
このような筋立ての物語です。

 

進化の最終系に達した人類は何を語るか

未知との遭遇、上位の知性による地球の管理、人類の進歩と不安といったテーマは、今でこそよく見かけるものとなりました。しかし、「幼年期の終わり」に描かれる未来像は、まったく新鮮な感動に満ちています。

 

それは、人類の歴史の終焉を人間として迎えようとするジャンの姿に結実します。

地球の歴史、そして人類の頂点に達した人間を待っていたのは、新たな種族から遺される孤独でした。それはある種、悲劇的な結末です。個人の力を超越した大きな力と運命に相対した時、人はあまりにも無力でした。それでも「人類」は、最後まで自分たちに誇りを抱きます。

歴史を語ることを、最後まで諦めない。それが人間の人間たる所以なのでしょうか……?
同時期に発表されたアメリカのSF小説、『夏への扉』(The Door into Summer)で描かれていた、技術や未来に対する希望とは対照的です。

 

私が特に面白いと思うのは、「幼年期の終わり」における人類の到達点が、「個」ではなく「全」であることです。大きなシステムの中の一つの部品として、より合理的な存在になるために、これまで人間が大切にしてきた心性や芸術性を昇華させていくところです。

 

人類の進化を外から見守る立場では、それは人間性の喪失という恐怖に映ります。しかし、進化する立場からは、それは自然な現象であり、違和感を覚えません。

それは人類がオーバーロードに抱く以上の恐怖と混乱です。
そしてこれは、2000年代を生きる我々に、現在起きつつある現象です。

 

AIと人間を巡る言説

AIの技術的発展は、その一つの契機と考えることができます。
2017年5月にAI「アルファ碁」が「柯潔(かけつ)」九段を破ったのは象徴的です。

人工知能の進化が人間の頭脳の一部を上回りつつある中、人類の未来像については様々な意見が出されています。

 

ビジネス関連の言説に多いのは、AIが人間に追いつくのはまだかなり時間がかかるという見方です。人間にはAIより優れた(異なった)能力があり、特に発想や発明といった分野では顕著であるという主張です。言い換えれば、自由な発想や発明など、知的作業一部は機械には苦手であるという意見です。人類はAIとの協力関係を築くことで更なるステージへと進むだろう…。

 

一方で、発想・発明について、人間とAIとの間に大きな差は無いという意見もあります。例えば、機械が自分の挙動の意味を説明できないように、人間も「自分がなぜそのように行動したのか」を説明することはできない。

発想や発明は人間にしかできないというが、それらは天から降りてくるものではなく、過去の事例や失敗といった知識・経験の参照により生み出されるものだ。その点はAIの発想法と変わらないではないか。

たが、人間と変わらないのだとしたら、人と機械の差はなくなってしまうのだろうか…。

 

AIは敵なのか

幼年期の終わり」は、冷戦期の世界状況をモデルにしているようです。ですので、描かれていた、人類の進歩と旧価値観との対比は、共産主義と民主主義のものと捉えることもできます。

 

しかし、このような対比は、AIを始めとする社会のデジタル化によって、また新たに繰り返されているように思えます。

 

幼年期の終わり」が教えてくれる未来像で、最も示唆的なのは、オーバーロードもまたシステムの部品に過ぎないということです。彼らは人間を学び、時にはその原動力に敬意すら覚えますが、友となることはありません。

 

人間とオーバーロードは、数十年をかけて会話をし、お互いを知ろうと学び合い、自らの種族の足りないところを知識として補います。

しかし、関係はそこまでであって、最後まで並列に、お互いの道を進むだけです。

人類と新たなる技術との関係はどうなるのでしょうか?

 

人類とAI、人類とスマートフォン、人類とインターネット、加速する技術革新に適応した人類とそうでない人類……etc。

 

友か敵かという議論が盛り上がる一方で、最後に待っているのは、機械は機械であり、それ以上のものではなかったという、ある種当たり前の結論もあり得ます。

 

人間の未来を巡る問いの新たな変奏系

だとすると、考えるべきは「AIと人類の未来」ではなく、「AIのある環境に適応した人類と今現在の人類の未来」という、人と人の関係に、これから先人間がどのように生きるのかという原初的な問題に、立ち戻っていくのかも知れません。

 

近代において、カント、マルクスアレントフーコーなど、幾度も繰り返されてきた「人間の危機」について、AIの技術的進歩は新たな疑問の契機となっているようです。
このような議論が洗練されるまではまた多くの時間がかかると思われます。

 

 
【感想】「幼年期の終わり」から見る進歩と終焉の変奏系

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