読書が趣味な人にありがちなこととして、買ったもののまだ読んでいない、あるいは最初だけ読んだものの途中で読むのを中断して積まれてしまう、いわゆる「積み本」という現象があります。
最初に購入した際に抱いていた期待が、どうやらその本からは簡単に引き出せそうも無いとき、自身の興味が移り変わってしまったとき、はたまた単純に時間が少なくなってしまったとき……。
本を読むには「機」があり、読書とはその機を見つけ出す探求でもあります。
「地球の長い午後」(ブライアン・W・オールディス)を読む「機」が訪れたのは、私にとってごく最近のことでした。
物語の舞台
物語の舞台は、太陽が放射線を増し、その寿命まであと数十世紀と迫った未来の地球です。地球の自転は停止し、反面が永遠の夜、反面が永遠の昼という二つの世界に分離されました。地球は温室化が進み、人類のほとんどが環境の変化に適応できず死亡し、代わりに巨大な樹木や食肉植物等が繁茂しています。空は昆虫が支配し、地表は菌類に支配されています。
残された人類は、文明の利器を失い、体力や知性も退化を続けています。十数名の仲間とコロニーを作り、辛うじて生をつないではいるものの、外敵による攻撃や男児の減少等により、いつ絶滅してもおかしくはない状況です。
体力の衰えた大人たちは、〈頂き〉を支配する巨大生物「綱渡」に進んで魂をささげ、数を減らしつつある人類の現状を「なるようになる」と諦観しています。
静的な終末の世界
興味の一つは、世界(地球)の「終末」を描かれていたことにあります。
丁度クラークの「幼年期の終わり」を読み終えた私は、地球文明の終焉に対し人類がどのように望むのかについて、非常に強い関心がありました。
「幼年期の終わり」の登場人物は、避けようのない未来に対し、人類のこれまでの経験や英知を重んじ、人間であることの限界を受け入れる、その年代的過程が一つの見どころとなっています。
一方、「地球の長い午後」の世界では、すでに変化の兆しは終わりを見せ、人類は肉体・知性・社会性のすべてにおいて衰退しつつあります。文明の行く末を定める大きな歴史的事件は起こらず、人間という種は「緩やかな死」に進んでいます。
「幼年期の終わり」を動的な終焉だとすれば、「地球の長い午後」は静的な終焉です。この、静かな衰退の中で「人間であること」、このテーマを発見した時、本書は私にとって他の類のないSF小説となったのでした。
植物という敵と味方
エイリアンでもなく、サイボーグでもなく、巨大植物に征服された地球というアイデアが、この小説の第1の面白さです。太陽光を利用した発火で獲物を狙う植物「ヒツボ」、星間を移動する現地球の覇者「ツナワタリ」、巨大な根を足のように動かし海を越えて種を撒く「アシダカ」など、新環境に適応した多様な生物が次々と登場します。
彼らは人間からみれば恐怖の対象ではあります。しかし、彼らの目的は自らの生存と繁茂であり、進んで外敵を駆逐しているわけでもありません。彼ら植物・昆虫・菌類は、人間を超えたスケールで環境と共生し、ある種の社会を築いており、時に神秘的ですらあります。
人間はその社会に適応できなかっただけであり、戦う相手ですらないのです。
本書を宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」の元イメージとしてとらえる評もありますが、緑と湿気に満ちた不思議な世界観を読み進めれば、うなづける話です。
一方で、「ナウシカ」では植物・昆虫・菌類との関係を通して人類の愚かさと愛が描かれているものの、「地球の長い午後」ではそうした人間主義的側面はあまり描かれません。むしろ、倫理や文化はよりプリミティブな方向へ退化しています。私は、それこそが本書の面白さであると思います。
しかし、この作品を受容できるかどうかの分かれ目は、別にあります。
独善的な主人公
日本人の読者が、本書を読むうえで最も評価が分かれるであろう点が、主人公グレンでしょう。
少年「グレン」は、絶滅へ歩みを進める人類の中で、最も独立心に富み、独善的に振る舞う存在です。
彼は、仲間たちが、これまでの経験から最も安全と思われる手段を選択しようとするたびに、意義を唱えます。
それまで敵としか見なされてこなかった昆虫たちを、時には仲間として利用するなど、斬新な発想を持っています。また時には仲間を見捨てるような合理主義者でもあります。
仲間たちはそんな彼をどのように扱うかを度々議論しますが、彼を支持する声の根拠は「貴重な男性」であるから。彼らの人間関係は、あくまで生物的現実に基づいています
次第に仲間内で孤立する彼は、一人で植物の世界を探検し、新たな仲間を得ることになります。
母性的でグレンをよく理解する女性ヤトマー、知性を失いより強い植物や人間に服従するポンポンたち、寄生した生物の深層心理にアクセスする知性を持った菌類アミガサダケ、支配した人間に自らを運ばせるイルカ型生物ソーダル・イー、不可思議な生物らとともに、地の果てにたどり着いた彼らは、地球の命運を知ることになります。
友情ではない仲間たち
グレンは、パートナーであるヤトマーに対しては優しくするものの、ポンポンらに対しては非常に強権的です。平和に暮らしていた彼らを無理やりに連れ出し、食糧を奪ったり、蹴飛ばしたりしながら旅を続けます。外敵に襲われそうになっても、ヤトマーを守るのみで、ポンポンを囮に逃げようとする節もあります。
グレンが心を許すもう一つのパートナーが、アミガサダケです。アミガサダケは、現地球では類のないほどの知能を持っているものの、自分だけでは生きられません。自らの繁殖という目的のため、グレンの頭に寄生し、彼らを利用しつつ旅を共にします。寄生生物であるアミガサダケは、グレンが死ねば自らも死んでしまう可能性があるため、基本的には協力的な姿勢を見せています。しかし、自身の生存が危うくなれば、グレンを強引に操り、彼が仲間から孤立し、体の不調を訴えようとも、行動を強いることもあります。
このように、彼らの関係は信頼や協力といった言葉からは、非常に遠い所にあります。たった今仲間であったとしても、いつ裏切るか分からないような不穏に満ちており、現代の感覚では非常に好感を持ちにくいキャラクター像とも言えるでしょう。
協力ではなく共生
しかし、植物と昆虫の支配する中で、追い詰められた他の生物が共生するとは、このような世界であるかもしれません。
そこでは、近代の友情や倫理ではなく、生き残るためにお互いの長所を利用しあう弱肉強食の現実主義が、生存のための最適解となりえます。
「地球の長い午後」が描く終末観とは、そのような原始的関係への対抗を人類に予感させます。
そして、このような終末観は決して遠い未来の出来事とは言えなくなりつつあります。
人口減少というもう一つの静的な終末
国立社会保障・人口問題研究所の発表によれば、2015年には1億2700万人であった日本の人口が、2045年に1億0600万人、2065年には8800万人まで減少する可能性があると見込まれています。そして、そのうちの4割近くが65歳以上の高齢者です。
50年でおよそ4000万人、現在の三分の二近くの人口が減少します。これは人口の最も多い市である横浜市が10個以上消滅する計算です。
人類史上、これほどの規模で人口が減少した期間は発見できません。
私たちは、こうした時代を、体力や知力が少しずつ衰える中で、AIなど人間以外の知性と共に生きるすべを探さなければならないのです。
このように考えたとき、グレンやアミガサダケらの生存戦略を、果たして原始的選択として退けることができるのでしょうか?
時代の変化の中、本書が描き出した未来像は、また別の意味を持ちつつあるように思えます。