古典かつ適切な分量
2022年から友人と開始した読書会,記念すべき1冊目はショーペンハウアーArthur Schopenhauer(1788-1860)の『読書について』(岩波文庫,斉藤忍随訳)となった.
前回のエントリーの問題意識を踏まえつつ,まずは時間内に読める分量の古典から始める事とした.
本書は脚注含めおよそ全体は108ページ.内「読書について」という表題の文章は15ページほどであり,時間内に読み切れないという可能性も低い.また「読書」という行為そのものについての考察という点も会の趣旨として相応しい.
図書はパートナーとの相談の基選定した.図書を決めてから読書会を開くまでは約1ヶ月程度確保した.
本書の概要
02-1背景
著者のショーペンハウアーは19世紀の哲学者であり,著作としては本書『読書について』よりも『意志と表象としての世界』(Die Welt als Wille und Vorstellung,1819.)の方が有名だろう.
当時ドイツで主流であった観念論を継承しつつ,私たちの認識する世界は根底に流れる「意志」の表象であるという世界観を展開した.世界の中では人間の様々な意志が対立し,主導権を巡って違いに争い合う.争いに敗れた意志は苦しみを味わうため,意志を持つ限り人間の生からは苦しみを取り除くことはできない,そうショーペンハウアーは述べる.
私たちの生と苦しみが不可分であるという哲学は,一見すると絶望的で悲観的な世界であるかのような印象をもたらす.こうした面から,ショーペンハウアーは厭世的(悲観的)哲学者との評価もあったようだ.
しかし同著では,意志同士の闘いによる生の苦しみからの解放の道筋として,意志を持つことを否定するという結論が描かれている.ここには,欲望を捨て去ることで現世の苦しみからの解放を目指す,仏教やインド哲学の「解脱」との親和性を見て取ることができる.
このような背景から,ショーペンハウアーを伝統的な西洋思想やキリスト教的世界観とは異なる視点で捉える,「生」の哲学者という評価もあるようだ.
02-2本書の内容
今回取り上げた『読書について』は,正確には著作として発表されたわけではない.
主著とされる『意志と表象としての世界』の30年程後に発行された,『余録と補遺』(Parerga und Paralipomena,1851)の中から抜粋され,日本独自に発行されたものだ.
タイトルからは主著の内容の補完という意味合いが読み取れるが,読んだ限りでは単なる付録以上の内容を十分に兼ね備えているように思う.
当時の知識階層に見られた読書傾向に対する批判という形を取り上げながらも,その批判を通して彼の哲学の一端を垣間見え,まさに本会の初回に相応しい内容と言える.
本書は「思索」,「著作と文体」,「読書について」という3つの論文から構成されるが,主張は一貫して簡潔である.
それは,他人の考えを借りたり,何かに書いてある言葉を自分の思想であるかのうように語ることは偽物の思索であり,自らが自身のために考え書き出したものこそが真の価値を持つという主張だ.
彼によれば,私たちは読書に際して本を読むことだけに集中してはならない.それは熟慮を通して初めて本物の知性となるからであり,読んで満足しただけではただの模倣である.ショーペンハウアーの批判は辛辣だ.
しかし,彼が生きていた当時の出版界では,読者の気を引くために著者の社会的立場を強調したり,美辞麗句な文章で偽装された「悪書」が,金銭や名声を目当てに大量に出版されている.
私たちの時間は限られているため,そのような「悪書」は可能な限り読まないよう努めるべきだ,彼はそう忠告する.
「悪書」と「良書」を判断するための基準として,ショーペンハウアーは著者と文体に注目するよう述べる.特に文体は思想の顔とも言うべき物で,著者の精神が最も現れると考えているからだ.
読書でつかむべき事は,著者が「何について,何を考えたか」ではなく「彼がどのように思索したか」,そして著者の身辺事情では無く著者の思考の跡である.著者はそれらを著作に表すことに注意を払い,読者は文体からそれらを読み取る訓練を積むべきだという.
自らの思索により生み出された思想を書き記し,そうした良書を発見し後世に残すこと.彼はこれを,権力と不安を中心とした「政治史」とは異なる「文学と芸術の歴史」(「知性の歴史」)と定義する.
その構想として「悲劇としての文学史」を掲げ,本書は幕を閉じる.
[感想]読書批判を通した哲学的実践という深み
03-1弁証法を背景にした歴史哲学的視点
本書の論考は,命題を簡潔に捉えた短文で構成されている.そのため,論文のように論理構成を順番に追いかける必要は無い.
たとえば,「良書を読むための条件は,悪書を読まぬ事である.人生は短く,時間と力には限りがあるからである」(p96)といった一文は,それだけで日常世界を顧みる気づきを私たちに与えてくれる.
ページをめくりながら,自分の感性に訴えかけるような一文を探すような読み方もできるのも,本書の魅力の一つだ.
その一方で,丁寧に読めばそれぞれの論考が特有の論理形式をもって進められていることも分かる.
それは,一つの対象の中から対照的な概念を整理しつつ,相互の矛盾を通して結論を導く「弁証法」的論理だ.
たとえば冒頭の「無知なる富者」と「貧困と困窮」,「他人に考えてもらうこと」と「自分でものを考える力」(p91),「悪書」と「良書」(p96),「意志の歴史」と「知性の歴史」(p100)等,本書には至るところで対立概念の提示が見られる.
それらの対立概念は,ある面では反対の性質でありながらも,発生は共通の概念だ.
例えば「悪書」と「良書」は,模倣の偽物と本物の思想という対立概念でありながら,同じ「本」という言葉から発生している.
「他人に考えてもらうこと」と「自分でものを考える力」も,同様に「読書」という一つの行為から考え出されている.
このことは,問題となっている内容を捨てされば,物事が容易に良い方向へ代わっていくという,楽観的で単純な思考とは異なるものだ.
例えば,「他人に考えてもらうこと」を避けるべきだからといって,「読書」を一切辞めればすべて解決するといった単純な問題ではない.「自分でものを考える力」もまた,同じ「読書」から生まれるからだ.
そのため,私たちは「読書」という行為を部分的に批判しつつ,一方の肯定的な要素を抽出し実践することを通じて「読書」を洗練させていく.
そして,このような対立概念の争いと統合を繰り返すことを通じて,私たちが自分たちの生きる世界の歴史を作ると帰結する.
これは,古くはソクラテスやプラトンの対話的手法に代表される「弁証法」の特徴といえるだろう.
重要なのは,私たちの行為の積み重ねが歴史を作るという過程を,世界の歴史が作られる論理的な必然性として描き出そうとしている点だ.
これは,主体となる人間の在り方が世界の歴史につながるという運動を,国や言語・文化の境界を越えた普遍的な法則として捉ようとする試みと言えるだろう.
これこそが,本書を単なる世俗批判の書籍ではなく,歴史的哲学書たらしめる所以だろう.
03-2現代的メディア環境からみた注意点
しかしその一方で,本書には出版された当時の背景に基づく,一定の限界があることも確かだろう.
例えば『著作と文体』で述べられている匿名性について.
ショーペンハウアーは当時の出版状況の中で,話題作りのために真実かどうかも分からない本を書く著者を批判しつつ,実名の署名を基に本を書くことは著者としての責任であると指摘する.
しかし,名前から様々な個人情報を追跡可能となり,必ずしも真実で無い情報から発生する「炎上」等のリスクの高まった2020年代現在においては,匿名にすることで避けられる暴力があることも確かだ.
また,書籍が紙での出版物を指す19世紀から,情報発信・受容の手段が多様化しているメディアの変化も見逃してはならないだろう.
10~20代の主要な情報収集手段がYoutubeやtiktokなどSNSサービスになっている中で,私たちの理性や感性は当時と大きく変化している可能性はないだろうか.
webメディアの一般化により,「著者」(情報の発信者)と「読者」(情報の受け手)の境目は曖昧になり,情報は過剰かつ不可避的に通信されるようになった.複雑化された情報通信の中で,「悪書」を避け「良書」だけを抽出して読む環境を作ることは,非常に難しくなっている.
リアルタイムの相互的な情報通信は益々スピード感を増しており.「悪書」か「良書」かを判別する間もなく新しい情報が現れ,私たちに取捨選択を迫ってくる.
情報の質を確かめる間もない速度の中,声が大きく主張の強い意見が力を振るう現状は,ショーペンハウアーの予想した恐怖と不安の「政治史」へとつながっているかのようだ.
19世紀の出版物である本書を読むにあたり,古典を古典として読むのか,あるいは20世紀以降の視点から現代的な課題に対し逆照射を図るのか,私たちの姿勢が「自ら考えた」ものかどうかもまた問われている.
なぜ今ショーペンハウアーなのか 普遍的哲学の再生
若かりし頃にショーペンハウアーを読み,自身で大いに影響を受けたと述べるニーチェは,近代を指して「神が死んだ」時代だと述べた.キリスト教という絶対的価値基準が力を失い,信じられる物を失った人々は絶望する.社会への参加や人との関わりの意欲を失い,無力感に苛まれたまま流れに従って生きるという,「ニヒリズムの時代」がやってくると予言した.
私たちの生きている現在はどうであろうか.
開催前から後の現在に至っても汚職の発覚に枚挙の暇が無い2020年東京オリンピック,収束の気配が見えないコロナ禍,震災と原発……閉塞した社会状況に一時変化をもたらしたかに見えるのは,選挙という民主的手続きでは無く,個人の銃撃という暴力だった.
理念が力を失い,より強い権力や暴力が社会をコントロールするという現状は,ニーチェが予想したよりも深刻に悪化したニヒリズムであるのかもしれない.
市民の理性による自己統治を目的とした民主主義は,こうした事象を前にすると,確かに機能不全に陥っているように思える.
こうした中,今ショーペンハウアーの哲学を読む意味はどこにあるのだろうか.
社会の成員で共有する合意や普遍的な価値観が価値を失い,それぞれの立場からの認識や価値を重視するという考えは,哲学的には「相対主義」と呼ばれる立場の一つである.20世紀には相対主義のより洗練された形態として,自由や平等,正義といった近代社会の普遍的原理の正当性を徹底的に批判する「ポストモダン」という思想が流行した.
「真実は人によって違う」,「人は人,自分は自分」,「建前では無く本音が重要」,「正しいかどうかではなく強いかどうか」,「本当かどうかでは無く信じるかどうか」……,こうした標語は,確かに私たちの時代感覚と一致するものも多いかも知れない.
しかし,このような相対主義的は,私たちが異なる価値観を受け入れることや,社会の有るべき普遍的な姿を話し合う素地を,奪ってしまってはいないだろうか.
こうした反省から,私たちは一つの仮説を引き出す事ができる.
行き過ぎた相対主義とポストモダンの哲学は,現代的ニヒリズムに対して有効な力を持てなかったのではないか.むしろ,普遍的価値観への懐疑を通じて,近代社会の基本原理の解体を積極的に進めてしまったのではないかという仮説だ.
そうであるとすれば,今必要なのはポストモダン以前の哲学をもう一度見直し,現在にあった形で捉え直すこと,その上で解体されてしまった普遍的価値観をもう一度再生することができないだろうか.
これは哲学のみならず,人文科学全体における再生のプロジェクトにつながっているように思われる.
ショーペンハウアーの哲学は,私たちの行動と行為によって「真の文学史」が作られるという,普遍的価値観を背景としている.その意味では,極端な相対主義的哲学とは一線を画する.
上記プロジェクトがもし可能であるのならば,ショーペンハウアーを通して,私たちはその先鞭的な仕事に一つに触れることができるはずだろう.
本書はその哲学の入り口として,大きな示唆を含んでいる.
読書会としての感想
二人で始めた読書会だが,上記の通り,ショーペンハウアー『読書について』は非常に現代的な示唆を含む内容であった.
一部の表現や内容については,文章のまま受け取ろうとすると時代的な制約を感じる一方,読書を通じた私たちの行動が大きな歴史につながっていくという巨視的な視点は,古典哲学ならではスケールの大きさであった.
20世紀以降の分析哲学や社会科学に見られる具体的でローカルな実証的な方法からみれば観念に偏った形而上学という意見もあるかもしれないが,世界を一つの歴史として捉えようとする統合的視点はむしろ新鮮にも思えた.
こうした感想を共有できたのはとても良い経験であった.一方で,一人で読書するだけでは得られない視点,意見をもらえたのは読書会の最大の価値だと言える.
とりわけ時代的な制約という距離の取り方については,パートナーの視点がなければ語ることができなかった.
メディアと人間の関わりという観点からはマーシャル・マクルーハン(1911-1980),それらの加速度的変化が人間に及ぼす影響という点ではポール・ヴィリリオ(1932-2018)などの考えを挙げてくれた.
また,ポストモダンがによる現代の孤独としての例として村上春樹(1949-),ポール・オースター(1947-)等が挙げられた.
これらは議論に広がりを与え,ポストモダンと古典哲学というテーマを深めてくれた.
専門的な哲学の分野に限らずに新しい本の知識を知り,自分だけでは気付かない視点を得られるという点において,改めて読書会とは本当に有意義で楽しいものだ.大事に継続したいと思う.
次回は『人間不平等起源論』(ルソー,本田喜代治・平岡昇訳,岩波文庫)を読む予定.
参考
読書について(ショウペンハウエル,斉藤忍随訳,岩波文庫)
ショーペンハウアー(梅田考太,講談社現代新書)
弁証法はどういう科学か(三浦つとむ,講談社現代新書)
Stanford Encyclopedia of Philosophy(https://plato.stanford.edu/entries/schopenhauer/#6)