はじめに
今回ご紹介するのは、ダニエル・コーエンの「経済成長という呪い」(※1)です。21世紀の資本主義社会が直面している、資源の有限性に伴う経済成長の停滞と、飽くなき成長を求める人間の欲求という矛盾を主要なテーマとした良著です。
長くなってしまったので、2回ほどに分けてご紹介したいと思います。
経済成長の果実は上位1%の元に
著者であるダニエル・コーエンはチュニジアの出身の経済学者、思想家です。フランスの大手新聞ル・モンド紙の論説委員であり、トマ・ピケティと共にパリ経済学校を開設した人物でもあります。すでに多数の著作があり、アメリカをはじめとする十数か国で翻訳がされています。
本書が読まれるヨーロッパやアメリカ等先進諸国では、1950年以降、経済成長率は低下を続け、現在では3%前後を彷徨っています。とりわけフランスでは、3%、1.5%、0.5%と、10年単位で低減しつつあり、経済的閉塞感が世界規模で広がっていると言えます(※2)。
参考:世界の実質GDP成長率 国別ランキング・推移(IMF) – Global Note
カールマルクスはかつて、資本主義の本質を「富は偏在する」という一言で喝破しました。所得上位者と、そうでない者の格差は経済成長においても同様です。
「トマ・ピケティの研究によって明らかになったように、アメリカでは、経済成長の果実の大部分は、所得上位10%の懐に収まり、国民の90%は購買力の上昇とは無縁だった。ちなみに、所得上位1%は、経済成長の果実の55%を手中にした。」(p1)
このような経済成長は果たして正しいのか。あるいは、経済成長は人類にとって不可欠であるのか。そうであれば、別の形での経済成長はありえるのだろうか。本書の問題意識はここから始まります。
農業、鉄鋼業、デジタル化
経済成長という言葉を考えるにあたって、コーエンは人類の歴史を見直すことから始めます。
紀元前1万年前に始まったとされる農業、農業を継続的に行うための社会階層の発生、鉄鋼業を始めとする産業構造の変化と産業革命。ヨーロッパでは、科学革命によって、神よって支配されるという宗教的世界観は後退し、合理的思考によって未来と資源をコントロールするという新たな思想が普及しました。マルサスやケインズが予想したように、産業の進歩により、人類は恒常的な飢えから解放され、人口は爆発的に増加を続けました。
そして現代、技術革新は様々に形をかえ、そのスピードは増し続けています。
「火、石器、農業など、人類に進歩の大きな段階が拡散するには数千年かかった。印刷術は100年以上かかり、そして今日スマートフォンが世界中で利用されるようになったのは10年だった。」(p81)
しかし、現代のわれわれは、猛スピードで加速する技術革新の中で、世界は有限であったという新たな課題に直面することになります。
社会のデジタル化が与える影響
デジタル化は、果たして私たちの生活にどのような影響を与えるのでしょうか。
世界のデジタル化が労働に与える影響として、「カール・ベネディクトとマイケル・オズボーンは、デジタル化によって雇用の47%が脅かされるという研究結果を発表し、物議をかもした。」(p93)ことが挙げられています。
参考:マイケル・A・オズボーン博士の「未来の雇用」。AIではなくマシン・ラーニングから考える | Webマガジン「AXIS」|Web Magazine AXIS
販売員、会計士、不動産仲介業者、パイロット等の準専門職の仕事が機械に代わられる一方、精神分析学者や歯科医、スポーツ選手、聖職者、作家にはその恐れが少ないといいます。
もう一つの影響は、社会から中間層が失われるという予測です。
デヴィット・オゥターはアメリカの雇用を、経営者・専門家等の高所得層、現場監督・事務職等中間層、対人サービスや飲食等低賃金の低所得層の三つに分類し、1999年のサブプライムローンの分析を通じて、中間層の職業が最も減少すると結論付けています(※3)。
第3世界に及ぼす影響
このような変化が経済成長率へ及ぼす影響については、すでに述べた通りです。先進国の経済成長率は3%前後での低迷を続けています。
その一方で、新興国には人口と経済成長率の増加がみられます。
しかし、これは良いニュースであると同時に、本質的にはそうではないと、コーエンは言います。それは地球環境保全の観点に基づきます。
「中国がアメリカの消費形態になると、2030年までに、中国は、現在の世界の穀物生産量の3分の2を消費することになる。中国の紙の消費量がアメリカと同等になると、中国は3億トンの紙を消費するだろう。そうなれば世界中の森林が破壊されてしまう」。(p123)
また、温室効果ガスの使用量増は、およそあと70年で海面の5m上昇と平均気温の5℃上昇を促すとされます。
経済成長を失った国々が推奨するであろう政策と、新興国のものは考えるまでもなく一致しないでしょう。
しかしながら、環境の有限性は世界規模の危機に関わるものです。果たして、世界が共通の未来を構築することは可能なのでしょうか。
進歩の意味を捉えなおすーフロイトとルネ・ジラール
私たちは、人類共通の未来を描くために、進歩の意味を捉えなおす時期に来ているとコーエンは述べます。この点において、コーエンは経済学者の知恵のみに頼ることの限界を説きます。
それは、こうした状況にあっても、多くの人間が将来は経済が成長するであろうという希望を捨て去ることができないためです。人間が幸福を感じるメカニズムは、他者との比較の中で発生します。
したがって、自己の富の総量が増加しても、より富める隣人が傍にいれば、人は十分に幸福を感じることができません。コーエンは、このような心理学的分析を、フロイトやルネ・ジラールに依拠しながら、個人の欲求は仕事を通じた昇華によってはじめて充足すると結論付けます(※4)。
※1 本書の原題は「Le monde est clos etle desir infini」。直訳は「閉鎖された世界と無限大の欲望」でしょうか。これを「呪い」と訳した翻訳者の感性には目を見張るものがあります。本書はフランスの哲学者であるジョルジュ・バタイユの着想を非常に重視しています。ここでいう「呪い」を、バタイユの「呪われた部分」と関連付けて考えると、非常に示唆に富みます。かつてヨーロッパの啓蒙思想は、非合理性という「魔術」から解放された近代は、自由と平等という普遍的価値観の追求に向かうはずだと説きました。しかしながら、近代化したはずの理性は、「合理化」という新たな宗教に依存することになります。かつて希望に満ちた未来を予感させた「経済成長」というキーワードは、成長を求めることを辞めることができない「呪い」として、現代のわれわれの前に現れています。この「呪い」から逃れた、別の生き方はあり得るのか。本書は、現代社会に対する経済学的な分析でありながら、西洋哲学の伝統的なテーマにも立脚しています。
※2 もちろん、GDPからみた経済成長率には各国でバラツキがあり、とりわけアジアをはじめとする新興国では、2000年以降5%を超える国も多い。しかし、本書後半で述べられるように経済成長の拡散がそのまま本質の解決につながるわけではありません。
※3 中間階層の職業が最も減少するという事実は、日本の、とりわけ事務職を目指そうとする転職者や、労働者にとって耳の痛い話題ではないでしょうか。
厚生労働省の発表では2018年10月の有効求人倍率は1.49。しかし事務職に限れば0.50と、各職業のうち最も倍率が低くなっています。
参考:https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000212893_00009.html
※4 経済学的な視点での社会分析でありながら、心理学(それも古典的)を用いたアプローチを行うのが本書の魅力の一つであるが、Amazon等のレビューを観ればフロイトやルネ・ジラール、バタイユの引用を「分かりづらい」とする日本の読者もいるようです。これが西洋的教養主義によるものなのか、日本人の知識不足によるものなのかは別途検討が必要かもしれません。